「君たちはどう生きるか」・続 〜人生という最高のゲーム〜
昨日に続いて「君たちはどう生きるか」について話していきたいと思います。
前回のブログの最後では
「SNSで僕たちの距離は縮まり、人間的なものになってきましたが、確かな断絶もあるような気がします。
しかし、1930年代、軍国主義が強まっていた日本より生きやすいことは確かなようです。
ですが、僕たちはまた別の種類の閉塞感を覚えているのではないでしょうか?」
と書かせていただきましたが、じゃあ僕たちはどのような思いを胸にしているのでしょうか?
東京で蔓延するキャリア観や結婚観の問題は
— あまん (@buddhobhagavan) 2018年4月19日
「選択肢の多さ=意思決定の柔軟さ=幸福度の高さ」
という教典を胸に、無用な選択肢や隣の芝生に価値観を惑わされ続けた挙句、若さという貴重な時間資本を失った状態で世襲身分のクラスタに回収されていく人が99%であるという点。https://t.co/YO9jG5Vfzx
その一端を解くのに非常に有用だと思うのが、このツイートです。
どう生きるか?つまりHowについてまず考えるのは難しいのではないでしょうか?
この東京では多様な生き方が溢れています。
女性ならば、丸の内でバリキャリとして働いても良いですし、一般職として入社して良い男つかまえたら家庭に入るというのも選択肢の一つです。
男性にしても、大企業で出世コースに乗りエキストリームサラリーマンとして働くか、副業を始めてゆるふわ働くか、はたまたブラック企業で苦しみながら働くのかなど、プライベートでは浮名を流すのもよし、一途に一人の女性を想い続けるのでもよし。
僕たちがやっている人生という最高最大のゲームには様々な選択肢があり、僕たちは無意識のうちにそれを選んでいます。
長年の研究によってプレイスタイルはある程度限定されてきたように思えますが、いまだにその選択肢は膨大であり、他人をみて自分の現状を後悔するといったことも少なくないように思えます。
僕も情報技術か医学かで迷ったことがあり、現在それを後悔している部分もなくはないので、気持ちは非常に分かりますが、
楽しそうなのは隣の芝生だからです
よくいう言葉に、現在の状況が君にとってのベストだ、といった意味の言葉がありますが、僕はそれは凡そ事実だと思っています。
ほとんどの場合において、あの時ああしていたらなどという後悔はナンセンスですし、それよりも現状からどうするか考えた方がよっぽど有意義です。
じゃあ、僕たちの感じるこの閉塞感はなんなのだろうか?
僕たちは、なぜそうしたのか解らないことにストレスを覚えているのだと思います。
仕事選びにしても、何をやりたいかはすぐには出てきませんが、なぜ仕事をするのかから考えるとある程度は出てきます。
まず、お金を稼がなくてはいけない。
次にやりがいが欲しいし、仕事が楽しい方がいい。
やりがいってなんだろうか
僕のやりがいは、目の前の人から「ありがとう」って言われること、誰かから感謝されることでした。
今は色々あって少し揺らいでいますが、就職なりなんなり様々な選択肢がある現在でも僕は全く後悔していません。
多分、これからいくつも辛い思いをするでしょうが、その度に自分の原点「なぜ」に立ち返るんだと思います。
「君たちはどう生きるか」の世界ではこの「なぜ」は明確でした。貧乏だったら「生きる」ために、ある程度偉くなってくると「お国のために」、コペル君は「みんなが友だちのようになれる世界を作るために」
なぜか解らないことは頑張れません。
かつてモチベーションの話をしました。
人間の創造的行為のモチベーションは「自主性・成長・目的」です。
自分の人生の方向を自分で決め、何か大切なものについて向上し、自分より大きな誰かのために働く、ことが僕たちのモチベーションになります。
魔王を倒すとかあったら分かりやすいんですけど、そういうゲームではないので、一人一人目標を、ゴールを見つけないといけません。
「ニートになる」だったり、「テクノロジーで世界を変える」だったり、様々な目標があります。
僕たちはなぜ生きるか?
まずは、この理由を探すところから始めていきたいと思います。